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大阪地方裁判所 昭和45年(わ)2903号 判決 1971年12月07日

主文

被告人は無罪。

理由

本件公訴事実の要旨は、「被告人は、自動車運転の業務に従事するものであるところ、昭和四五年六月二〇日午前五時三〇分ごろ、大型貨物自動車を運転し、山口県下松市未武中一一五九の七番地先道路を南東から北西に向かい時速約六五キロメートルで進行中、前方約34.5メートルの地点に道路左側部分を自車と同一方向に進行していた山本繁雄(当時五四年)運転の原動機付自転車を認め、その右側を追越そうとしたが、このような場合、自動車運転者としては、あらかじめ警音機を鳴らしてその反応を待ち、安全にその右側を通過できるような十分な間隔をとり、その動静を注視して進行し、事故の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があるのに、これを怠り、警音器を鳴らさず、時速約七〇キロメートルに加速しながら同車の動静注視をなおざりにしたまま同車の右側近を追越そうとした過失により、追越車両の接近を知らなかつた前記山本運転の車両が道路右側に横断するため方向を斜め右に変えつつあるのを約一一メートルに迫つてようやく認め、危険を感じ警音器を鳴らしたが、なおも同車が方向を右に変えつつあるのをさらに左前方約4.5メートルに認め、急拠、急制動の措置をとるとともに右に転把したが間に合わず、同車に自車左側を衝突させて転倒せしめ、その衝撃により、同人に対し、頭部外傷三型の傷害を負わせ、よつて同人を同月二三日午前二時一五分ごろ、同県徳山市連玉県三番一五号所在徳山中央病院において死に至らしめたものである」というのである。

<証拠>を総合すれば、つぎの事実が認められる。すなわち、

被告人は、昭和四五年六月二〇日午前五時三〇分ごろ、大型貨物自動車(車長10.48メートル、車幅2.50メートル)を運転し、山口県下松市未武中一一五九番地の七先の国道二号線をほぼ東から西に向け時速約六五キロメートルで進行していたこと、同所道路は、幅員が約一一メートルコンクリートで舗装され、中央に白線でセンターラインが標示された平坦な直線の見とおしの良好なところであること、しかるところ、自車の進路上、道路左側部分の中央よりやや右側のセンターライン寄りを山本繁雄(当時五四年)運転の原動機付自転車(車長1.815メートル、車幅0.615メートル)が時速約三五キロメートル位で同一方向に進行しているのを前方約34.5メートル先に認め、この際、同車をその右側から追い越そうと考え、反対方向からは対向進行する車両もなかつたので、自車の進路を道路右側部分に変え、車体をすつかり道路右側部分に乗り入れ、時速約七〇キロメートルに加速して同車の追越しを始めたこと、右追越しの際、被告人は方向指示器を表示したものの、前車に対しとくに警音器を吹鳴することはなかつたこと、そして、同車に接近して行つたわけだが、約一一メートルに迫つた際、(前掲実況見分調書によつて検討すると、被告人車が原付自転車を認めた地点から追越しを始めてこの地点に到るまでの走行距離は約53.5メートルこの間に原付自転車の走行した距離は約三〇メートルと認められる)、左前方にある原付自転車がセンターライン上に寄つて来ているのを認め、危険を感じ、三、四回警音器を吹鳴したが、同車がなお道路右側部分の自車進路上に寄り、右に道路を横断しようとするので、急遽急制動の措置をとるとともにハンドルを右に切り、右斜めに走行して道路の外に出て、道路右側に並ぶコーエ薬品株式会社および周南三菱自動車販売株式会社の前の空地に車を乗り入れ、そこで停車するにいたつたが、その間において、被告人が急制動の措置をとつた地点から右斜め前方約一五ないし二〇メートル進行した道路右側部分の中央より少し右側に当る地点の付近で、道路をやや右斜めに横断して行つた原付自転車がその前部右側あるいは後部荷台の右側を被告人車の右側面中央部辺の油タンクに接触させ、そのはずみで山本は車もろとも路上に転倒したこと、しこうして、同人は頭部外傷三型の傷害を負い、訴因記載の日時場所において死亡するにいたつたこと、山本は新聞販売業を営んでいたものであり、自らも原付自転車を運転して新聞配達に従事しており、事故当日も前記コーエ薬品株式会社内のアパートの住人に新聞を配達する途中と思われること、以上の事実が認められる。

右認定の事実によれば、結局、本件は、被告人運転の車両が同一方向に先行中の被害者運転の原付自転車をその右側部分に出て追越し中、被告人車の追越し接近に気付かなかつた被害者が道路を右に横断進行し、被告人車と接触して発生した事故であるが、検察官は、このような追越しの場合、被告人にあらかじめ警音器吹鳴の注意義務があると主張する。後車が前車を追い越そうとする場合は、後車は反対の方向からの交通及び前車の前方の交通にも十分注意し、かつ、前車の速度及び進路並びに道路の状況に応じて、できる限り安全な速度と方法で進行しなければならないわけであるが(昭和四六年法律九八号による改正前の道路交通法二八条二項、以下、引用する道路交通法はいずれも改正前の同法を指す)、一般に、追越しの場合に警音器吹鳴義務を課してはいないのである。かえつて、法令の規定により警音器を鳴らさなければならないとされている場合を除いては、危険を防止するためやむをえないとき以外には警音器を鳴らしてはならないことになつている(同法五四条)。したがつて、本件のように、被告人車が先行の原付自転車を追い越そうとする場合にあつては、先行の自転車が進路変更あるいは道路横断等の気配があり、具体的に危険が察知されるような状況にあつた場合は格別、そうでない限り、被告人としては、前車に追越しを覚知させ警告を与えるところの警音器吹鳴義務は負わないものと解すべきである。そこで、本件において、被告人車が追越しの際、先行の原付自転車が道路横断等の気配を示していたかどうかについて検討しなければならない。被告人は、捜査の当初から当公判廷を通じ、先行の原付自転車には、道路を右に横断する合図はなかつた旨供述しているのであり、前掲司法巡査作成の実況見分調書および証人山田崇明の当公判廷における供述によれば、本件事故直後に原付自転車の実況見分が行なわれているところ、それによると、原付自転車の方向指示器のスイッチは中央になつていたこと、方向指示器のランプについては、左側は操作するけれども、右側については、右前の赤色ランプのみ点灯するが点滅しなかつたし、右後のランプは、まつたく点灯さえしなかつたことが認めらるので、この事実と被告人の右供述とを併せ考えると、被害者の原付自転車はとくに道路を右に横断する合図をしないで進行したものとみるのが相当である(なお、当公判廷において証人石川陽は、本件事故直後に本件事故現場に駆けつけてみたところ、道路右側端の辺に原付自転車が転倒したままになつていたが、右側後ろの方向指示器のランプは点滅しているのを見たと供述するのであるが、しかし、前記実況見分の結果からみると、不合理の感を免れず、同証人の思い違いか目の錯覚ではなかつたかと考えられ、そのまま信用することはできないし、また、検察官は、前記方向指示器のスイッチの状態については、事故直後被告人において工作したのではないかとの疑いを主張するが、しかし、被告人においてこのような工作をした証拠は見出し難い)。さらに、本件事故現場の道路の状況は、前記認定のとおり、幅員約一一メートル、コンクリート舗装の平坦な直線道路であり、前方の見とおしは良好であることのほか、本件事故現場は、交差点でもなければ、その付近に交差点がある場所でもなく、また、道路右側に車両の出入が予想されるような場所があるわけでもない。ところで、一方、原付自転車のような車両の運転者は、道路を右に横断するときには、合図をしなければならないし(道路交通法五三条)、あらかじめその前からできる限り道路の中央に寄り、かつ徐行しなければならないことになつているが(同法二五条一項)、本件において被害者の原付自転車が道路を右に横断するのに合図をしていなかつたことは前記のとおりであり、また、前記認定のように、あらかじめ道路中央に寄り徐行していた形跡も認められない。そうだとすると、被告人車が追越しの際、先行する被害者の原付自転車には道路を右に横断するような気配は窺えなかつたとみなければならない。してみると、被告人としては、先行の自転車がそのままの進路で直進を続けるものと信頼して行動しても無理はなく、追越しに際し、警音器吹鳴の義務はなかつたものといわなければならない。

つぎに、検察官は、被告人の被害者に対する動静注視義務の違反をも主張する。もとより後車が前車を追い越そうとする場合はもとより、追越しの最中にあつても、前車の動静を注視しなければならないのは明らかである。しかしながら、本件においては、被告人は、被害者の原付自転車を追い越そうとする際、同車の動静を注視していることは、前記のとおりであり、同車の追越しを始めたことには自動車運転者としての注意義務違反は認め難い。そして、その追越しは、前記のように、前方約34.5メートル先を先行する前車を道路右側部分に乗り入れて追越したものであり、前掲実況見分調書によると、右追越し開始の地点から、道路をやや右斜めに横断した被害者の原付自転車と接触した地点までの被告人車の走行距離は約78.2メートルであることが認められるので、被告人車の速度(時速約七〇キロメートル)を勘案して、その所要時間をみれば、四秒ないし五秒の間である。しこうして、その間被害者の原付自転車も時速約三五キロメートルで進行していたものであり、もともと、被告人車が被害者の原付自転車の追越しを始める段階にあつては、原付自転車が進路を変更したり又は道路を右に横断する気配は見られなかつたのであり、被告人車が追越しの最中、原付自転車への注視をなおざりにしたために、道路を右に横断しようとする同車の状態の発見が遅れたという事情は認め難い。原付自転車のハンドルにはバックミラーも取付けられているのであるから、通常の注視をもつてすれば、後車が右側から接近して来ていることは容易に覚知しうるものといわなければならない。したがつて、本件において、被告人に対し、前車の動静注視義務の違反を問うことはできない。

以上の次第で本件において被告人に過失があるとは認め難く、この点で、結局、犯罪が証明がないといわなければならないので、刑訴法三三六条に則り無罪の言渡をする。(坂詰幸次郎)

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